匿名性が大切なブログ

山田の個人的なブログでフィグスとはほぼ無関係な考えごとを記します

優生思想について

※2020/3/18、20分で書きました。今後この記事は僕だけの為に、追記・修正していきます。やまゆり園事件は僕の人格形成に大きく関わっています。

 

匿名性が大切なブログですよっ!

 

 

 


フィグス4「アイトシタイ」の企画段階での仮題は「生きるに値する」というタイトルでした。僕は2016年の相模原障害者殺人=やまゆり園の事件のことを書くつもりでした。

 

 

2019年4月に書いた公演企画書で、僕は下記のように書いていました。

 

 

 

「日本人の抱える内なる優生思想と、それによって引き起こされるジェノサイドについて、2016年の相模原障碍者殺傷事件をもとに、考察します。犯人の主張、思想、手紙の内容に共感し、そこにはなにかしらの道理、真実があると(意識的もしくは潜在的に)感じた多くの人々に、その思想のおぞましさを主張します。
人間の生は平等なのではなく、すべて無意味である。その無意味さを追求することのみ、ジェノサイドをなくす唯一の方法であると、考えています。」

 

 

 

 

結果、途中まで書いたこの脚本は全くのボツにし、別の新作として「アイトシタイ」を書きました。詳細は省きますが、ジェノサイドを書くタイミングではないと思った事件がまた別であったためです。

 

 

 

 

 

 

 

 

一昨日かな、横浜地裁で植松聖の死刑判決が言い渡されました。
控訴はしないらしいので、この事件はこれで収束するのだと思います。

 

 

さて、いま思うことを特に精査することなく、記していきます。
僕がこの事件を調べている中で一度たどり着いた「人間の生は無意味である」とすべき、という結論までの道のりです。

 

 


事件の詳細は省きます。

そもそも、「事件そのもの」と「事件の影響」は区別されるべきだと思います。
前者は裁判で済んだと考えています。

 

植松が衆議院議長に向けた手紙が公開されています。

 

「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、および社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」。そのための足掛かりとして「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と。「今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます」。

 

 

 

 

もしも報道機関がこの発言を単に二次拡散し、明確な問題点を撃たないままでいるならば、それは間接的な加担になってしまいます。
しかし、優等生的な言い草でメディアを批判してみせるだけでも、致命的に足らない。なぜなら、多くの人々は「犯人を批判する優等生的な発言」への自己欺瞞や嘘くささを感じ取り、それによって植松の手紙とひそかに共感していくようにすら見えるからです。

 

 

 

 

 

 

やりきれないのは、表面化しないものも含めて、ケア現場で働く労働者の中にすら、少なからず似たようなことを考えている人がいるのかもしれない、と思えてならないことです。現にいまツイッターで「植松聖」と検索すると、そのようなものを多く目にする。その点がこわいのです。

 

 

 

 


もちろん、安易に植松の主張や境遇に共感するべきではないと思います。本音では彼の気持ちもわかる、というのもまた、間接的な差別助長になりかねない。しかし、彼のことを怪物的な「非人間」として扱うのも、慎まなければなりません。というのは、その考え方はまさにそのまま「生きるに値しない生」の抹消を正当化する論理へと帰結してしまうからです。

「あいつは精神障害者ではなく、犯罪者やテロリストにすぎない」という線引きもまた、優生的な罠なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

一息。

 

 


どんなに重度の障害者の生にも意味がある、と言いたいわけではないんです。そういってしまえば、意味・無意味、善い生・悪い生、という差別的な二分法が温存されてしまう。どんな愛情や善意からであれ、それを言ってしまうのはまずいと思います。

 

 

 

 

 

つまり

 

 

「優秀な人間や健常者は生きる意味があるが、障害者は無意味だ」という優生的な価値観は根本的なところで間違っている、と言うだけでは足りていない。
むしろ、「障害者だろうが健常者だろうが、人間の生には平等に意味がない=生存という事実は、端的に非意味でしかない」と言わなければならない、と考えます。

 

 

 

 

 

 

僕たちは、誰にとっても平等で対等な、そうした圧倒的な非意味=ノンセンスこそ、耐えねばならないのではなかったでしょうか。

 

生存という事実にはそもそも何の意味もないということ。

 

 

 

この圧倒的な、非人間的な事実を受け入れ、府に落とせないのであれば、僕たちはたぶんずっと生の無意味さを恐れ、不安になり、他者を羨んだり蔑んだりしながら、「自分の人生には何の意味もなかった」という優生的な思想によって内側から食い殺されていく。

 

 

 

 

つまり、逆なんだと思います。

 

 

誰かの生は無意味であると言いだしてしまえば、本当に無意味になっていくのは僕らのほうなんです。なぜなら、意味と無意味の線引きは、もともと恣意的であって、身勝手で虚無的であらざるを得ないからです。そのことを認めるのは、つらいことであり、おそろしいことだと思います。ただその先に生が自由になる世界があると考えます。

 

 

経済的貧困だけではない、承認欲求や幸福感のことでもない、根本的に誰かの役に立ちたい、何かをしたい、という欲望を、それを断ち切るのではなく、非差別的で非暴力的な方向へ切り替えていくとは、どういうことでしょうか。

 

 

 

 

考えています。

 

また追記します。おわります。